(5/3)墓参と多摩蘭坂 昨日、一応行くには行ってきた。いつも通り無事に墓参を終え、電車に乗って戻り、国立駅を降りて多摩蘭坂へ向かう頃になると、けっこう雨が降ってた。まぁそういうこともあるさと、行くだけ行ってみたけど、なんか今年はあんまり人が来てなかったのかな。何人かはいたみたいだけど。雨の中歌うわけにもいかないので、すごすご戻ってきた。 連休中、また行こうかな。。。 |
(5/2)13年後の、5月2日 清志郎の死から13年後。いろいろ、思うところもある。オサマ・ビン・ラディンが殺害されたのはその2年後の、同じ日。いまから11年前か。『瀕死の双六問屋』の中の、イラク戦争についてのエッセイ、今読み直すとウクライナの戦争に通じるところも多い。というか、世界、あんまり変わってないなぁ。平和じゃないなぁ。この前そば屋のご主人が「そば粉の生産量世界一はロシアだから、ロシアから輸入できなくなってそば業界が困ってる。」みたいなこと言ってた。身近で感じる戦争の影響はそんな感じだけど。。。うーむ。 知床へは3回行った。記憶がはっきりしないので、ここを見て思い出した。後になってから2回くらい書いている。これとこれかな。どちらかというと、南側の羅臼に用があって行っていた感じだけど、2003年に初めて行った時は、ウトロから知床岬の先端までを巡る観光船に乗った。たしか、冬の間は網走で流氷観光船として使われる、オーロラ号だったと思う。その時のことは今でも記憶に残っている。知床岬の近くまで行くと、陸が近い場所なのに潮の流れが複雑になっているようで、海も、青いというよりは「黒い」感じで、そら恐ろしかった。あの場所で海難事故が起こるなんて。。。知床に、こんな記憶が残ってしまうなんて。。。乗っていた人たちのことを想像すると本当に苦しくなる。 何日か前、小坂忠さんが亡くなった。73歳。がんだったそう。彼と清志郎がNHKホールで同じステージに立ったのは、Tin-Pan再結成のときだった。アンコールのハンドクラッピングルンバ。楽しかった。でもやっぱり、2001年12月の厚生年金を思い出す。もう21年前!そういえばあの時も失業中だったなぁ。。。 そのさらに数日前、中学の同級生が亡くなった。53歳。肺がん。もう、あんまり突然のことで、信じられないというか、第一報のメールを読んで、きっと詐欺か何かに違いないと思ったもの。中学の文化祭でバンド。当時みんな楽器始めたばかりで、ひとバンド一曲やるのが精一杯。やっぱり『雨上がりの夜空に』やった(笑)。メンバーがほぼ決まった後に「オレに歌わせろ!」と、半ば無理矢理入って来て、もともとボーカルだったやつと「ツインボーカル(?)」という形でステージに立ったけれども、マイクのバランスが極端に悪くって、初めからいたボーカルくんの声はほとんど聞こえず。後から無理矢理入ってきた、ヤツだけが目立つというちょっと後味の悪い結果に。ごめんね、ボーカルくん。RCのコピーなのにハンドマイクじゃなくて、ギター、しかもエクスプローラーを抱いての歌唱。何でやねん。当時、二光通販のエレキギター、2万くらいのやつ、みんな持ってたなぁ。俺のは先輩から5000円で譲ってもらったやつだったけど。 その押し入りボーカルくん、一人っ子だったからかなぁ。カセットテープやレコードをやたらたくさん持ってた。壁にはストレイキャッツのデッカいポスターと、矢沢タオル(!)。分かりやすい田舎ヤンキー。でも、イマジンを教えてくれた。「Let It Be好きなら、こっちも聴かなきゃダメだ。」って。ありがとう。いまでも聴いてるよ。どうぞ安らかに。 なんか、いろいろ思うところある13年後の5月2日。色々ありすぎて、とっちらかっちゃったな。まぁいっか。墓参と多摩蘭坂、行けるかな?最近体力ないからなぁ。。。 |
'22年6月の記事へ | '22年4月の記事へ |
エセRockerの独白 | |